大好きの証



「いいなあ、おそろいいいなあ」

 むすっと頬を膨らませながら、楓は片手をグーに握り締めたスプーンでオムライスをすくいあげた。顔も手もケチャップでベタベタになっているがそのことは全く気にも留めず、大きく口を開け、あむりとスプーンいっぱいのチキンライスを頬張る。
 ふわふわ卵のオムライスは友恵お手製で、三歳になったばかりの楓のお気に入りだ。
 子供は時々突拍子もないことを言い出す。
 今日目に付いたのは虎鉄と友恵の薬指に光る指輪。
 そして困ったことに、自分のおねだりのほとんどが父親に通じることを楓はもう知っていた。

「かえでもパパとママとおそろいのほしいなあ」

 虎鉄が珍しく食事時に家に居るせいだろう。
 自分の横に座る母親と、目の前に座る父親。ほらこぼすわよと差し出された母親の左手と、喉を潤すためにコップを掴んだ父親の左手。目の前でせわしなく動く両親の左手の薬指に収まっていた指輪が同じものであることに楓はようやく今日気付いたらしい。
 初めて母親に指輪をねだったのはどれくらい前のことだっただろうか。

「ママのこれキラキラきれい。いいなあ。かえでにちょうだい」

 これまで何度もそう言っては駄目と断られ続けてきた。父親の虎鉄と違って母親の友恵へのおねだり攻撃の成功率は限りなく低い。お菓子もおもちゃもこれまで一度ダメと言われたものは、どれだけ楓が泣いて騒いでも手に入った試しがない。
 そんなイジワルな母親に比べて、父親のなんて簡単なことか。

「あのね、ママがおもちゃダメって」

 まるで告口をするように楓がそう言うと、ヤサシイ父親はいつも楓の欲しいものをこっそりと買ってきてはプレゼントしてくれるのだ。
 けれど、そんな父親と娘のナイショの隠し事は毎度あっさりと友恵に看破されてしまう。
 甘やかしすぎだと友恵に大目玉を食らい涙目になった父親の頭を「パパいいこいいこ」と撫でてやると、虎鉄は「楓ぇ!」と大好きだの愛してるだのという言 葉とセットで抱きしめてくる。楓自身もチクチクとするヒゲのことは不満だったが、そんな父親のことが大好きで仕方なかった。
 だからきっと今回もお揃いの指輪も父親が買ってきてくれるのだろうと楓は信じて疑わなかった。しかも今日はいつもと違ってこっそりと耳打ちするまでもない。なぜならば耳打ちをするべき相手はもう既に目の前にいるのだから。
 しかし今回ばかりはそううまくはいかなかった。

「ごめんなぁ、楓。これは結婚指輪って言って、パパとママの大事な大事な指輪なんだ。パパがママを大好きで、ママがパパを大好きっていう証だから、世界中探してもパパとママの二人分しかないんだよ」

 普段なら「ママにはないしょだぞ」と言ってくれる父親がノーと言い出したのだ。
 虎鉄にしてはうまいこと言ったつもりだったのだろう。けれど三歳の子供を納得させるにしては少々難しすぎた。
 父親と母親はお揃いなのに、自分には買ってくれない。
 自分だけが仲間外れなのだ。
 湾曲して伝わったそれに、悲しみの泉へ落ちた楓はみるみるうちに目を真っ赤にしはじめた。

「なんでえ?……かえでもパパとママだいすきなのに、どうしてかえでのぶんはないの?」

 ぱちりとまばたきをすると溜まった涙が溢れた。
 普段笑顔の虎鉄が、珍しく眉毛を吊り上げていたのも響いていた。口調は優しかったが、その顔は楓が今までに見たことないほど怖い。一体自分は何か父親を怒らせることをしたのだろうか。
 ボロボロと泣き始めた楓をそっと抱きしめたのは友恵だった。

「楓、泣かないで。楓にはママの指輪をあげるから。そうねえ……来年くらいかな?楓がいい子にしてたらね」

 いつもなら友恵が怒り、虎鉄が慰めるのに、今日ばかりはあべこべだ。

「……友恵?」

 そんな友恵を不審に思ったのか、虎鉄が何か問いただすように友恵の名前を呼んだ。

「今日、病院行ってきたの。長くても一年だろうって……ごめんね、虎鉄くん」

 ガタンと虎鉄が勢いよく立ち上がったせいで椅子が倒れた。
 その音にビックリした楓が顔を上げると、自分だけでなく友恵も泣いていた。

「嘘だろ……?」

 顔を真っ青にした虎鉄がふらふらしながら駆け寄り、楓ごと友恵を抱きしめた。
 ごめんね、と何度も謝る友恵につられて、楓もよくわからないままごめんなさいと繰り返し謝った。自分のせいで友恵が泣いているのだと思ったのだ。
 その時、ぽたり落ちてきた涙で楓の腕が濡れた。落ちてきた涙は友恵のそれではなく、声も出さずに泣く虎鉄の目から次から次に零れてきたものだった。
 この世に生を受けて三年と少し。この日、楓は初めて両親の泣き顔を見た。

***

「まだちょっとブカブカなんだよね」

 久し振りに帰ってきた父親とようやく仲直りをした楓は母親の形見の指輪を見せて口を尖らせた。

「もしかしてちょうどよくなったらずっとつけとくの?楓とパパ、お揃い?」

 お揃いであることを嬉しそうに強調する父親に、楓はゲッと不満を隠そうともしない。

「そうか……お父さんとお揃いはちょっと嫌かも」
「オイオイ、そんな意地悪なこと言うなよう。いいじゃないかパパとお揃い」
「まあ……お父さんとお揃いっていうのは微妙だけど、お母さんの形見だしなー」

 迷惑そうに言いながらも楓の顔は笑っていて、テレフォンの画面越しではけして伝わらない温度がいまここにはある。

「楓」
「ん?」
「その指輪はパパとママと楓の三人の大好きの証なんだからな?」

 あの日のことは幼かった楓の記憶にはない。
 けれどこのどうしようもない父親が今も母親を想っているのだということは知っていた。そのことは未だに外される事のない左手薬指の指輪が雄弁に語っている。

「……そんなの分かってますよー」
「なら良し」

 ニッと笑いながら虎鉄が右手でそっと自身の指輪を撫でているのを見て、楓もニッと笑った。この時、虎鉄が辞表の書き方調べねーとな、と考えていたことなど露知らず。

 

(2011.07.25)

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