有刺鉄線の秘密
そもそも山内はこういうことを言い出すような生徒ではなかった。
いつも山内とつるんでいる吉岡とは真逆で、校則がゆるいこの学校にしては珍しく、肩までしかない黒髪に、眼鏡をかけ、化粧だってしていない。
ステレオタイプの優等生とはこういうヤツのことを言うんだろう、なんて思っていたのだが。
「あたしが先生のこと好きだって言ったら、先生困るでしょう?」
山内のこんな挑戦的な顔を見るのは初めてだった。
「そうだな、困るな」
「だから言いません」
それは言ったも同然だ、ということをこの少女は分かっているのだろうか。
おじさんをからかって遊んでいるのか?
そう笑って流してしまいたかったが、困ったことに山内のオレを掴む手は震えているし、
目がどう見てもマジ。
おいおい、嘘だろ冗談だろ、冗談だと言ってください。
ここはひとつ話題を逸らそう、そうしよう、と苦し紛れに口を開く。
頼むから面倒なことにオレを巻き込まないでくれ。
「今日は…吉岡はどうしたんだ?」
我ながらとてもベタな話題逸らしだ。
「ゆみなら明日彼氏が仕事休みだから彼氏んちに泊まるんだーって喜びながら急いで帰って行きましたよ」
「……そうか」
いまどき男女交際にうるさい学校もそうないだろうが、
だからと言って「お泊り」を堂々と教師に宣言されるのも、正直困る。
さてどうしたものかと思ったところで、聡い山内はすぐにそれを察してくれたらしい。
「ごめんなさい。彼氏んちにお泊りとか、学校の先生に言ったらダメだったかも」
「全くだな。他の先生には言わないように」
「はい、言いません」
ほっとしたように笑うその顔は、先ほどまでと打って変わってにこやかだ。
いままで見た目が派手な吉岡の影に隠れて気付かなかったが、よくよく見るとまつげが長く、綺麗に生え揃っている。
「あたしまつげがないんだよ!」と先日マスカラは最低2本いると力説していた吉岡を思い出し、思わず吹き出してしまった。
「何で急に笑うんですか?」
「ん?いや、お前のまつげを吉岡が羨ましがってる画が浮かんでな」
「ああ、よく言われます。あやも少しはメイクしろー!って」
やっぱりそうか、と呟くと先ほどよりもわずかに強く、山内の手に力が込められた。
それでも、全く痛くはないのだが。
「先生もメイクした方がいいと思いますか?」
「んー…どうかな。男は意外とすっぴんが好きだったりするけど」
「そう、なんですか…?」
「そうなんです。少なくともオレはそう」
「そっ、か」
何かに納得したような顔をして、山内の手が緩み、ようやくオレの手から離れた。
「今日はそろそろ帰ります」
と山内が言った瞬間、安堵の溜息が出そうになった。
それを意識的に堪え「おう」と平常どおりに返事をする。
生徒の目の前で溜息など、いくらなんでも失礼な気がしたからだ。
「先生、またここに来ていいですか?」
「勉強の質問と進路の相談ならいくらでも」
「……はい」
突き放すような態度に、わずかに山内の表情が歪んだが、そこはあえて無視をした。
冷たいと取られるかもしれないが、それはそれで仕方ない。
むしろそう取ってくれることを望んだ上でのセリフだ。
山内が準備室を出て行くのを見送ると、どっと疲れが押し寄せ、
堪えていた分も含め、ハアと出る大きな溜息が止められない。
ああ、くそ、誰か助けてくれ。
ポケットから携帯を取り出し、
サブディスプレイにピカピカと表示されているメール受信の文字を確認。
差出人の名前は見る間でもなく分かっている。
『先に家に行っててもいいの?』
いつものことだが、絵文字の一つもないシンプルなメールは見た目とは大違いだ。
このシンプルなメールにちょっとだけ癒されながらポチポチと返信打つ。
『今日は早く帰る。飯でも作っててくれ』
宛先人の名前は吉岡ゆみ。
マスカラなんてしなくても充分可愛いというオレの言葉を全く聞かない女。
すぐに返ってきた『りょーかい』の文字を見、今夜の食事に思いを馳せる。
「さて、あと一仕事」
緊張で固まった体をぐっと伸ばし、上半身を左右に揺らした。
とりあえず今日山内と二人きりになったことは秘密にしておくことにする。
(08.08.19/改訂08.11.21)どっちにもバレたら大変そうだ笑