急ぐ恋ではないので



 今日もいい天気だ。
 大気汚染なんて言葉とは無縁なせいだろうか、空気がおいしい。 一度大きく深呼吸をして、真奈は日課となったジョギングをするべく、軽いストレッチを始めた。
 いつもならここで瑠璃丸、暁月のどちらか―― あるいは両方が加わるのだが、今朝は刀儀も含め誰一人姿が見えない。 昨夜、瑠璃丸が明日はいないと言っていたが、どうやらいないのは瑠璃丸だけではなかったようだ。

「そういえば一人で走るのって初めてかも?」

 屈伸しながら一人ごちたところで

「御使い様」
「わっ!」

 いつの間に来ていたのか、背後から秋夜に声をかけられた。
 いきなりのことで、心臓がばくばくと音を立てる。

「びっくりしたぁ。おはよう、秋夜」
「御早う。――御使い様を驚かせてしまったようで、済まない」

 大したことではないのに、申し訳なさそうに目を伏せる秋夜をつい可愛いと思ってしまうのは駄目だろうか。 真奈が小さく笑うと、秋夜は申し訳なさそうな顔から一転、 今度は一体何が面白いのか分からないといった感じに、僅かながら困った顔をした。

「どうかしたのか?」
「ううん、そんなに真面目な顔して謝らなくてもいいよ。今日は秋夜も走るの?」
「ああ、走る」
「そっか。もう出発しても大丈夫?」

 秋夜から了承の返事を貰ったところで、二人は並んで駆け始めた。
 少しずつではあるものの、山道を走るのにも慣れてきた。 けれどやはり暁月や瑠璃丸のようにはいかない。 軽々と先を走っていく瑠璃丸に追いつこうとペースを上げてみたり、 途中やんやとちょっかいをかけてくる暁月へ向かって文句を言いながら走るのはいつものことで、 それでも軒猿である彼らは全くといっていいほど息が乱れていないのだから、 さすがとしか言いようがない。 ジョギングは真奈にとって運動そのものだが、彼らにとっては準備運動にすらあたらないかもしれない。
 それにしても静かだ。
 普段暁月や瑠璃丸と和気藹々話しながら走っているせいだろう。 こうやって無言で走るのはこちらの時代にやってきてから初めてのことだ。 けれどこの沈黙が気まずいというわけではない。 秋夜の口数が少ないのは真奈も知るところだ。
 たまにはこんな日があってもいい。 真奈はあえて秋夜に話しかけることもせずに走り続けた。 耳に入るのはハッハッと弾む自分の息遣いと足音、 そしてあたりで啼いている小鳥のさえずりだけだった。
 運動不足解消を言い訳に始めたジョギングだったが、走ること自体は嫌いじゃない。 こうやって一人―― ではないが、黙って走っている間は色々と考えることが出来るような気がするからだ。

 

***

 

 御使い様。
 そう呼ばれてはいるものの、その実は無為徒食。 ただ飯食らいでしかないことを真奈は気に病んでいた。
 政虎も弥太郎も綾姫も刀儀も本当によくしてくれる。 だからこそ何も出来ないのが苦しかった。

「到、着っ……と」

 あたりを一周走り終え、出発地点である刀儀の家へと戻ってきた。 うっすらとかいていた汗が、立ち止まった途端に噴き出してくる。 現代ならばすぐにシャワーを浴びることが出来た。 けれどここではそうもいかない。 風呂に入るには小島の家にまで行かなければならないし、さらには人を使って水を張り、 大量の薪を用いて湯を沸かさなければならないことを真奈はもう知っていた。 代わりによれた布を水に漬け、濡れタオルとして軽く顔を拭き、首へと当てた。 風が吹くとひんやりとして心地いい。

「付き合ってくれてありがとう、秋夜」
「いや、これも警護の内だ」

 私を警護する必要あるのかな。
 内心そんなことを思ってはいるが、自分の常識が通用しない世界で、常に誰かが傍にいてくれるということは頼もしくもある。

「じゃあ今日はずっとこっちにいるの?」
「一応そのつもりだ。……あ、いや、もしかしたら一度家に戻ることになるかもしれない」
「何か忘れ物?」
「御使い様は花が好きか?」

 唐突な質問に、真奈は目を丸くした。

「え、す、好きだけど」

 花が嫌いだという人なんているのだろうか。
 素直に答えると、秋夜はほっとしたように一度頷いて、ならば戻ると呟いた。

「家に摘んだ花がある。御使い様が花を好きか分からなかったから今朝は持ってこなかった」
「……それ、私にくれるの?」
「ああ、そうだ」

 秋は無口で分かりづらいと暁月が言っていた。けれど、優しいよと瑠璃丸は言っていた。 確かに暁月たちと比べると言葉数が多いとは言えないが、 だからといってけして冷たい人間というわけではない。
 沈んでいた真奈の気持ちが、秋夜の優しさでふわっと押し上げられた。

「嬉しい!ありがとう!」
「別に、御礼を言われる程のことじゃない」

 まだ渡したわけでもないのにと言いながら、 先ほどのジョギングでは全く変わらなかった秋夜の頬の色が今ではほんのりと赤く染まっていた。
 花を取ってくるので食事をして待っていろという秋夜に待ったをかけ、 真奈は二人で秋夜の家に向かおうと提案した。 一人で食事を取るなんて寂しいことをしたくなかったからだ。 厨には今朝家を発つ前に瑠璃丸か刀儀が拵えたのか、既に食事の準備が整えてあった。 二人は共に朝食を取り、秋夜が片づけを済ませ―― 真奈がやろうとすると止められた―― 先ほどのジョギングとは打って変わってゆっくりとした速度で歩きながら秋夜の家へと向かった。

 

***

 

「これだ、御使い様」
「わあ……綺麗」

 差し出された花に口元が緩む。受け取ったそれに鼻を近づけると芳しい香りが真奈を包み込んだ。

「ありがとう、秋夜」
「礼はさっき聞いた」

 ぶっきらぼうな物言いだが、その実、顔は優しく笑んでいる。
 いい匂い。
 しばらくうっとりとしていたが、男の人から初めて花をプレゼントして貰ったという事実に今更ながら気付き、一人でドキドキし始めてしまった。 そういうのじゃないからと、真奈は自分に言い聞かせ、 いつの間にか軒下へと移動している秋夜へと視線を移した。

「それはなあに?」
「薬草だ。昨日何を思ったのか珍しく暁月が来て手伝ってくれた」
「へえ」
「葉を一枚ずつ取って乾かすだけだが、助かった」
「それよ!秋夜」

 なんとなく尋ねたことだったが、続くその言葉にはっとし、真奈は秋夜へと駆け寄った。
 一方いきなり袖を掴まれた秋夜は、思わず右手で鎖鎌に触れた。 ほぼ無自覚の条件反射だ。刺客ではないだろうと暁月に言ったものの、油断をしていた。

「それ、私にも手伝えない?」
「手、伝い……?」
「私、ここで何か出来ないかってずっと悩んでたの。それにこのお花のお礼もしたいし……秋夜、さっきのご飯のときも片付け手伝わせてくれなかったでしょう?」
「それは御使い様の手を煩わせる訳にはいかないから……」
「もしかしてこの薬草も水瓶と一緒? 私が触ったら困る?」
「いや――
「じゃあお願い」

 掴まれた袖がきゅっと引っ張られ、秋夜は鎖鎌から手を離した。 激しく音を立てて脈打つ心臓はたとえ一瞬でも真奈を敵だと判断したからだろうか。
 薬を悪用される可能性は? 薬の中に毒を紛れ込ませる可能性は?
 起こりうる最悪の可能性をいくつか考えてはみるが、やはり、真奈が間者だとはどうしても思えない。 事実間者だとしても、自分の目の前で下手なことは出来やしまい。

「……今日はこのまま家に居る。あと数刻もすれば農村から怪我人や病人が来るかもしれない。 薬湯を出したりするのを手伝ってくれ」
「はい、秋夜先生!」

 満面の笑みを浮かべる真奈に、秋夜は目を逸らした。

「先生はやめてくれ」

 こうして真奈は翌日から毎日秋夜の元へと通うようになった。
 何か自分にも手伝えることが出来たことが、単純に嬉しい。
 秋夜から貰った花は半分は刀儀の家に、もう半分を秋夜の家にと飾った。
 真奈が口にする「家に花があると何か明るい」という意味は分からなかったが、 秋夜の元へ訪れる老人、子供の数は増え、笑い声が絶えなくなったことは、 なんとなくいいことのように思えた。
 ただ一つ、薬を受け取る際、ふいに触れる手に心臓が高鳴ることだけが秋夜の心配の種だった。

 

 

急ぐ恋ではないので

 

(10.09.26)ヨルグのために / タイトルお借りしました

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