あなたのためのリリィスター



 

「こうやってこの庭を見るのも最後になるのかしら」

寂しげに呟く声を無視して、青年は右手に持った剪定鋏で僅かにしな垂れているだけの真っ赤な薔薇をパチリと切り落とした。

「それももう切り落としてしまうのね」
「しな垂れた花を城の庭に残しておくのは許されていません」
「でもまだ咲いているわ」
「枯れた後では遅いですから」
「早めの処置、というわけね」

切る際に一枚ひらりと落ちた花びらを拾い上げ、少女は呟いた。
この庭の主は庭の美しさが損なわれることをよしとしていない。
咲き誇る薔薇を「美しい」と言ったその口で、 地面へ散ってしまった同じ赤を「汚らわしい」と言う父のことを、少女はあまり好きではなかった。
命令は忠実にこなさなくてはならない。
庭を美しく保つこと。
それがこの庭師の青年の仕事だった。

「あたしの結婚もお父様にとっては『処置』の一つなんでしょうね」
「姫様」
「何も言わないで」

こうなることは生まれたときから決まっていたことなの、と姫様と呼ばれた少女は青年の手にあった薔薇を奪い取った。
次に生まれる子が女子ならば彼の国の皇子と結婚を。
それが姫の生まれる前に同盟国と結ばれた約束だった。
少女が市井の娘ならば単なる口約束で終わったであろう父の戯言は、 その立場ゆえに戯言で済まされることではなかった。
そしてその約束の通り、少女は明朝にこの国を発つ。
昨日十三歳になったばかりだというのに、だ。

「あなた、あたしの事嫌い?」
「いいえ、嫌いではありません」
「そんな答え方では不敬罪ね」
「姫様の質問の仕方が悪いんですよ」
「では、あたしの事好き?」

パチリパチリと切り続けていた手を止め、青年は姫を振り返った。
青年にとっては小さい頃から――今でもまだ小さいが――ようやくつかまり立ちをし始めた頃から見ていた娘だった。
兄皇子と女官と、この庭で遊んでいたのがつい先日のことのように思える。
青年を見上げる瞳の色はあの頃から全く変わらないというのに、 その瞳の奥が今にも泣き出しそうに揺れていて、まるで宝石のようだった。

「姫様は…大きくなりましたね」
「それは答えになってない」
「好きですよ」

いま切り落としたばかりの薔薇をハイと手渡し、青年はにこりと微笑んだ。

「こうやって切った薔薇も水に浮かべておくと綺麗なんですよ」
「…知ってるわ」

教えてくれたのはあなたじゃないの、と姫はうっすらと瞳を潤ませ、それでも涙を溢さないようにと必死にまばたきを堪えていた。
分かっていた。
十三になったばかりの少女でも分かるのだ。
自分の思う「好き」と青年の言う「好き」が違うことくらいは。
それでも一度だけ、青年の口から答えを聞いてみたかった。
あたりには目が覚めるようなグリーンの中に、今手の中にある赤を始めとしたさまざまな色をした薔薇が咲き乱れている。
そしてそれらの下にひっそり咲いている花があった。
リリィスターだ。

「あたしは薔薇よりリリィスターが好き」

リリィスターはその小ささから剪定されることはない。
薔薇のように香りを放つわけでもなく、色とりどりの花を咲かせるわけでもない。
ただ小さく白く、星の形をしたリリィスターは薔薇をより一層引き立たせるためだけに植えられていた。

「あちらにこの花はあるかしら」
「さあ、どうでしょう。あえて植えるような花ではないですからね」
「あたしもこうやってひっそりと生きてみたかったわ…なんて、これだとあたしがお父様に対して不敬罪かしら」
「…姫様」
「嘘よ。子供の頃から毎日毎日言われてきたことだもの。覚悟は出来ているわ」

今でもまだ充分子供ですよ。
言いかけて、青年は口を噤んだ。
そんなことを言ったって現実は何一つ変わらないことを知っていたからだ。
朝が来れば少女は…姫はこの国を出る。
そうすれば一介の庭師でしかない自分とは一生会うことなどないだろう。
寂しくないわけではない。
でもそれを割り切れるほどには大人だった。
そう、少女の恋をあっさりと切り捨てられるほどには。
青年は腰に巻かれたエプロンにたくさんついているポケットの一つに手をいれ、小さく折りたたまれた紙袋を取り出した。
そのまま姫の左手をつかみ、手のひらを上へと向かせる。
思えば、これまで言葉を交わしたことは数あれど、 こうやって自ら姫の手に触れるのは初めてだ。
先ほど手にした袋からパラパラと姫の手のひらへと何かを落とした。
それは小さく、黒く。

「これは、」
「リリィスターの種です」

なあに、と姫が聞く前に青年が答えた。

「彼の国はここと同じような気候だと聞きました。きっとあちらでもリリィスターは咲きます」

そうして青年は種が落ちないようにと姫の手を軽く握らせた。
庭仕事で荒れてしまっている自分の手と違い、姫の手は白く、傷一つないことに気付く。
ささくれもなく、爪は綺麗に磨がれ、瞳と同じグリーンに塗られていた。
たったそれだけのことだったが、それこそがこれから先もけして埋められることのない青年と少女の差だった。

「咲かなかったら、どうすればいいの」

あたしはあなたみたいに花を育てたことなんてないのに。
ついに堪えきれなくなったのか、姫の目からはポロポロと涙が零れてきた。
行きたくない。あなたのそばにいたい。
そんな気持ちを口にすることすら許されず、ただただ十三歳の少女は泣いた。

「晴れた日の夜に、空を見上げてください」

姫のことは愛しかった。
それでもそうやって泣いている彼女を抱きしめることは青年には出来なかった。

「その名の通り、この花は星です。夜空にはたくさんのリリィスターが咲いていますから」
「…あなたでもそんなくさいセリフを言うのね」
「これでも姫様の倍は生きてますので」

青年のセリフにそうだったわねと、瞳に涙を残したまま少女は笑った。
小さく、白く、庭を、空を優しく彩る。

「全部、あなたのためのリリィスターです。姫様」

青年は姫の前に跪き、種を握り締めている左手の指に軽く口付けた。
実は一度、こういう騎士様の真似をやってみたかったんです。
見よう見まねなので違ってても笑わないで下さいね。
言いながら泥だらけのエプロンで恥ずかしそうに笑う青年の頬に、姫はそっと唇を寄せた。
夕闇が庭を包む。
別れの時間だ。

「どんなに遠く離れようとも姫様に一生の忠誠を。幸せになられることを心からお祈り致します」
「あたしもあなたが幸せであることを祈るわ。ずっと、ずっと」

これが二人の交わした最後の会話となった。
翌朝、姫は見たこともないような行列の中、大勢の国民に見送られながら出立し、彼の国に到着後まもなくして彼の国の皇子と婚姻の儀を執り行った。
さらに数年の後、姫が産んだ娘には「リリィ」という名が付けられ、国にはたくさんのリリィスターが咲いているらしい。
異国の地へと嫁いだ姫の噂話は、数年たったいまでも耳に入ってくる。
噂話で聞く彼女の姿は、まだ少女だったあの頃とは全く違うもので、 青年には成長した今の彼女を想像することがとても出来なかった。
彼の国でリリィスターが咲いている。
そのことだけが青年を喜ばせた。
噂話を聞いたその晩、青年は夜空を見上げた。
そこでキラキラと光る小さな星々はまさにリリィスターそのもの。

「あの種、ちゃんと咲かせられたんですね」

誰に言うでもなく一人呟く。
リリィスターが好き。
いまの姿はわからない。
けれど、そう言った少女の姿をした姫を思い出しながら、青年はその日柔らかな眠りについた。

 

 

あなたのためのリリィスター

 

(08.06.21/改訂08.06.26)※リリィスターという花は存在しません

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