それは思いもよらない日でした



「ね、阿部君はキスしたことある?」

いきなり何を言い出すんだ。
普段の千代からは想像もつかない言葉に、阿部は耳を疑った。
「悪い、もう一回言ってくれ」と頼んでみたが結果は同じで。

「阿部君は、キスしたことある?」

内容が内容なだけに、 こちらに顔を向けて問いかける千代の唇にばかり目がいってしまう。
困ったことになったな。
気まずさを誤魔化すように、阿部は手に持ったノートへと視線を移した。
「ない」と言おうか。
それとも「ある」と答えてみようか。
どちらにせよ千代がこの事を他の人間に話さないのであるならばどちらでもいい気がした。
しかし、阿部が答えるよりも早く、千代が口を開いた。

「ちょっとしてみていい?」

いきなり何を言い出すんだ。
文字をなぞるだけで全く頭に入らないノートを読むのを止め、阿部は先ほどと全く同じことを思った。

「あんた、さっきから何言ってんだ?」
「だからキスしたことがあるかどうか聞いてるの」
「"だから"の意味がわかんねぇ」
「私は阿部君とキスがしてみたいんだけど、阿部君がまだキスしたことないんだったら、ファーストキスの相手が私になっちゃうじゃん。それって嫌でしょ?」

それでどうなの?したことある?ない?
そう聞きながらじぃと阿部を見つめる千代の瞳はわずかに潤んでキラキラと光っているように見えた。
ああ、もう。何でこんなことになったんだ。
篠岡千代は可愛い。
それはクラス内外から言われていることで、阿部も口にはせずとも思っていたことだ。
そんな千代が自分を見つめながらキスをしてみたい、と言っている。
断る理由がどこにあるというのだ。

「キスならしたことある」
「ほんと?」
「おう」
「じゃあ、私がしてみても大丈夫?」
「別にいいよ」
「軽く、ね」

阿部のその返事で意を決したか、千代は少しずつ阿部へと近づいていった。
椅子に座っている阿部とでは、立っている千代の方が少しだけ屈む格好になる。
千代が髪を耳へとかき上げると、阿部の目からは白く細い首のラインが綺麗に見えた。
ほんの一瞬。
それは唇同士が本当に僅か、触れるだけのキスで。
阿部が千代の唇の温もりを感じる間もなく、千代は顔だけでなく体ごと離れていった。
キスをした後の千代の表情からは照れも感慨も一切読み取れない。
そんな千代に「ご感想は?」とからかうように阿部が聞くと、破顔し「なんてことなかった」と明るい声を上げた。
その千代の笑顔を見て阿部は立ち上がり、手に持っていただけだったノートを千代へと押しつけた。

「悪い、オレ先に行くわ」
「うん、付き合ってくれてありがと」
「どーいたしまして」

そのまま鞄を持ち、ぶっきらぼうにドアを開け、けして後ろを振り返ることなくぐんぐんと歩みを進めた。
早く、そしてもっと遠く千代の場所から離れるために。
こんな阿呆みたいな苛立ちを千代に見せるわけにはいかないのだ。
ドキドキしたのはオレだけだったのか。
そう思うと悔しくてたまらない。

「何が"なんてことなかった"だ」

阿部は誰にも聞こえない声で、ぼやいた。
オレのファーストキスを返せ。

 

 

それは思いもよらない日でした

 

(08.05.23-24)今日昨日はキスの日だそうです

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