わたしの好きな人



窓際から三列目、後ろから二番目。
いつもそこに先輩は座っている。
三年生はもう部活を引退してしまって、 今ではこうやってわたしが先輩の教室に行く事でしか接点を持てない。
本当ならこの時期、もう三年生も卒業してしまうのだから 先輩に頼らないで自分が頑張らなくちゃいけないのに、 やっぱり今日みたいに、 困ったら先輩のところへ自然と足が向いてしまう。
ダメだなぁ、わたし。

 

わたしがこうやって三年の教室に来るのは今となっては別段珍しい事でもなく、 教室のドアからひょこ、と顔を出すだけで先輩のクラスメイトの先輩(わたしにとっては三年生はみんな先輩だ)が、わたしが誰を呼びに来たのかなんて確認する事もせず「またお客さんが来たぞ」と先輩に声をかける。
まあ確かに先輩に用事があるのだから、その優しさはとてもありがたい。

「なぁに?今度はどうしたの?」

「いつもスミマセン~」と謝ると「いいから早く用件を言いなさい」と軽く頭を叩かれた。
篠岡千代、先輩。
わたしの憧れの先輩だ。

「あの、ボールの事なんですけど、ピッチングの練習球を新しいのに変えたいんです」
「うん、いいと思うよ」
「それでですね、」

先輩はいつもわたしが尋ねた事に対して、真正面から答えてくれる。
「これはこうだから、こうした方がいい」と、ちゃんと理由を添えてくれる。
わたしがこうした方がいいんじゃないか、と、先輩と違った意見のときも けして対立するわけではなくどうしてそう思ったのかを聞いて、 時にはそのままわたしの意見を採用してくれる事もある。
頭ごなしに「ああしなさい、こうしなさい」と言われてきた中学時代とは全く違って、 世の中にはこんなに優しい先輩もいるんだ!と感激したものだ。
わたしが一生懸命に今の野球部の現状を伝えていると、先輩の視線がふとわたしからずれ、後ろへ向いた。
その視線に釣られ振り返ると、そこには会いたくない人がこちらへ向かってくる姿があった。

「あ、阿部君」
「げ」
「よ!って、お前また篠岡んとこ来てんのかよ」
「数学のノートだよね?ちょっと待って」
「おう。――っていうかテメェ、 いま"げ"って言ったよな?"げ"って」
「言ってません。断じて言ってません」
「嘘付け」

ベシッと、さっき篠岡先輩にやられたときとは正反対に叩かれた音が耳に響く。
阿部隆也……先輩。
わたしの天敵だ。

「はい、ありがと。昨日なくて困らなかった?」
「別に。ただ水谷がちょっと借りたいんだと」
「そうだったんだ。ゴメンネって謝っといて」
「お前が謝る必要はねーだろ」
「やー…そうかもだけど、一応…ね?」

阿部先輩が来た途端、まるでここにわたしなんかいないかのように話が進む。
優しくて可愛い篠岡先輩。
意地悪で怖い阿部先輩。
性格が真逆、と言ってもいいこの二人の先輩が付き合っていることを知ったとき、 わたしはとても衝撃を受けた。
何を隠そう、篠岡先輩に「なんで阿部先輩なんかと付き合ってるんですか?」と 直接問い詰めたことすらある。
だって他にもエースで優しい三橋先輩とか、四番でムードメーカーな田島先輩とか、 主将で頼りがいがある花井先輩とか、もっともっと阿部先輩よりも素敵な人が 野球部にはたくさんいたのに。
そんなわたしに対して篠岡先輩は困ったように「なんでだろうね」と笑っていた。
「でも阿部君も優しいし、ムードメーカーだし、頼りがいあるんだよ?」
先輩は更にそう付け加えたけれど、 少なくとも私の目に映る阿部先輩にそんなところは一切なかった。
阿部先輩はまさに「ああしろ、こうしろ」と命令する、 わたしの大嫌いなタイプの先輩だったからだ。
それをうちの元主将――花井先輩は「息の合った飴とムチだろ」と笑うのだから 尚タチが悪い。

「っていうかお前な、そろそろオレらも卒業するんだから、 いちいち聞きにこないで自分で判断しろよ」
「わ、わかってますよ!」
「わかってねーから来てんだろーが」
「まあまあ、あと数ヶ月したら嫌でも一人になるんだからいいじゃん」
「お前甘やかしすぎ」
「阿部君が厳しすぎるの。部員だけじゃなくてマネジ辞めさせてどうするのよ」
「あれくらいで辞める方が問題あるだろ」

あ、また始まってしまった。
野球部名物の飴とムチはいつもこんな風にケンカが始まる。
真ん中にポツンと一人、一方からは庇われ、一方からは責められ、 ケンカの原因の張本人が置いてきぼりを食らうのだ。
過去に何度この場面に遭遇したかは分からない。
真ん中が今みたいにわたしだったこともあるし、新入部員だったこともあるし、 三橋先輩だったこともあるし、とにかくもう数えるのがアホらしいくらいの回数を こうやって二人は迎えているのだ。
毎度毎度よく飽きないよなぁ、とか、 いっそ別れちゃえばいいのに、とか思ったりもするのだけれど、 (篠岡先輩は阿部先輩にはもったいない!) その原因が"自分"と考えると申し訳ない気分になるので、 わたしはなんだかんだでいつもこのケンカを宥める羽目になる。
この状況を打破する一番の方法はただひとつ。
それとなく中立を主張し、この場から逃げることだ。
わたしは声を張り上げた。

「あの!」
「あぁ?」
「すみません、わたし一人でもう少し頑張ってみます」
「おう、そうしろそうしろ」
「大丈夫?出来る?」
「はい、やれるだけやってみます」
「うん、わかった。でもどうしても分からなかったらまた聞きに来てね? この人の言うことなんて気にしなくていいから」
「はい!」
「…おい」

阿部先輩が見るからに不機嫌な顔でこちらを睨んでくる。
それを誤魔化すかのようにわたしは作り笑いを返し、 逃げるように三年の教室を後にした。
おそらくまだ二人は言い合ってる…と思うけれど、まあ気にしないことにする。
今までのパターンから考えて、明日には元通りのはずだ。

 

 

 

授業が終わり、今から部活が始まる。
さっきまでの悩んでいたことはノートに書き出し、 一度現主将と監督とに確認を取ってみることにした。
篠岡先輩はその辺を全て一任されていたけれど、 (そう考えるとやっぱり篠岡先輩ってすごいなぁ) わたしはまだまだ篠岡先輩のようにはいかない。
きっと主将も監督もいちいち聞かれるのは面倒だろうけれど、 それくらいは我慢してもらおう。
荷物を整理して、部室へ向かう。
廊下を歩きながらふと窓の外に視線を向けると、そこに見知った姿をみつけた。
あ、先輩だ。
篠岡先輩と阿部先輩が二人並んで歩いている。
ついさっきケンカしたはずのに、一緒に帰るのかな?もう仲直りしちゃった?
わたしはなぜか目が離せずに、二人の後姿をそのまま見つめた。
二人はもちろん、わたしのことなんか気付いていない。
阿部先輩はまるでそうすることが当然のように篠岡先輩の荷物を手に取り、 空いた手を篠岡先輩へと伸ばした。
そして篠岡先輩もそれを当たり前のように受け入れ、差し出された手を握った。
わたしと先輩たちの距離は離れていて、声なんて聞こえてこない。
それでも篠岡先輩がとても嬉しそうな事だけは分かった。
きっと「寒いね」なんて話しているんだろう。
繋がれた二人の手はそのまま阿部先輩のコートのポケットへと入っていき、 そのままドンドンと校門の方へと遠ざかっていった。
なんだよ。ちくしょう。
認めたくない。けど認めざるを得ない。
あー、なんてお似合いの二人なんだろう。

 

 

わたしの好きな人

 

(08.01.08)

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