恋味



 最近さ、彼氏と一緒にいてもときめかないんだよね。と前の席に座っていた友人がお弁当を開きながらため息をついた。
「いきなりどうしたの」
「付き合い始めたばっかりのときはよかったんだけどさあ、長く付き合ってると、どうしたってマンネリになっちゃうよねえ」
 わかるわかる、とお弁当を片手に集まってきた友人たちが机を寄せ合いながら一斉に騒ぎ始める。
 両想いもいいんだけどさ、やっぱり楽しいのは片想いじゃない? 付き合ってみたら思ってたのと全然違いましたー、なんてあるしね。あるある。それと比べ ると片想いはさ、見てるだけでも幸せだったりするしね。相手のちょっとした行動で一喜一憂しちゃったりなんかしてさ。あー、するねえ。他の女と喋ってるだ けでヤキモチ妬いたりとか? そうそう、本当に下らないことでも喋れるだけで嬉しかったりするしね。そう考えるとあたしらって単純だよねえ。そうだけど さー、でもそれが片想いの醍醐味ってやつじゃん。
 話に加わらずお弁当を口に入れながら相槌を打つだけの私に、友人が不思議そうな顔をしながら問いかけた。
「千代もそう思うでしょ?」
 私はこれになんて答えたっけ。

***

 夏のあのうだるような暑さが、ここにきてようやく落ち着きを見せ始めたらしい。
 昨日まであんなに暑かったというのに、さっきから何度も頬を撫でていく風はひんやりと冷たい。この分だとすぐに長袖がいるようになるだろう。半袖で来た のは間違いだったかもしれないと、寒さでわずかに震えた腕をさすった。明日は七分袖の服を着るか、薄めの長袖カーデを持ってきた方がいいかもしれない。
 そんな中でも秋が来ることに抵抗しているのか、街路樹のあちらこちらからあの暑さを懐かしむようなセミの鳴き声が聞こえてくる。この鳴き声はなんだろう。ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ。セミの名前なんてそれくらいしか思い浮かばない。
 夏の間あんなにうるさいと思っていたセミの鳴き声を、こんなにもありがたく感じる日がくるなんて、いままで一度だって考えたことなかった。それもこれも無言のまま前を歩く人物――阿部君のせいだとしか思えない。
 私が阿部君のことが好きだ。
 でも、この気持ちを伝えるつもりなんてなかった。
 恋人になりたいと思ったことがない、とは言わない。けれどいまは恋人以上に仲間でいたかった。
 少なくとも三年間は想いを口にしない。
 そう決めていたのに、二人きりになるだけでこんなにも心が揺らぐ。気持ちが体を支配して、いつも以上に心臓の鼓動が早い。どうにかして落ち着かせようと してもそれは無理な話で、私は足元へあった視線を影を辿り上へと滑らせ、じっと阿部君の背中を見つめた。入学当時と比べてその体は確実に大きくなってい て、男女の差というものをまざまざと見せつけられた。
 ふと気になった。互いに無言のまま歩くこの姿は、傍目にどう見えるのだろう。阿部君とこうして二人で帰るのはこれが二度目になる。初めて二人で帰ったと きは偶然にも友人に見られてしまい、付き合っているのかなどと、変な誤解をされてしまった。けれどいまの私と阿部君の姿は誰が見てもけして恋人同士と誤解 することはないと思う。いまはあのときとは違う。もし私たちが恋人ならばきっとあのときと同じように横に並んで笑いながら帰っているはずだからだ。かと いって、同じ方向に向かって帰る友人かといえばそれも難しい。こんな風に全く会話をせずに帰る友達なんて、そうそういないに違いない。ああ、私が阿部君を 一方的に睨んでいるというのはどうだろう。男の後をただ静かについて歩く目つきの悪い怪しげな女。こんなことを考えながら歩くなんて馬鹿らしいが、あなが ち間違ってはいない。いまや私の目は阿部君の背中を見つめているというよりも睨んでいるに近いのだから。
 しかし、睨まれているはずの阿部君本人は背中を向けたまま、私の視線に気付く様子もなくそのままスタスタと歩き続けていた。もちろんこの場で急に振り向かれても困るのだけれど。
 とりあえず一歩、また一歩、阿部君の足から長く伸びる影を踏んで歩いた。少し気を抜くだけで、すぐに阿部君との距離は開いてしまう。今更になってようやく、この間は私に合わせて歩いてくれていたんだと気付く。
 でも、今は?
 私が一緒に帰っていることなんて忘れてしまっているのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、先ほどから一度も後ろを振り返ることをしない背中がなんだか急に憎らしく思えてきた。憶測でしかないが、面倒なことになったな、なんて思っているのかもしれない。
 気持ちがネガティブな方向へ向いた途端、先日の出来事が頭をよぎった。考えることをあえて避けていた現実が目の前に突きつけられる。それは忘れようにも忘れられないことだった。
 阿部君が自転車置き場に一人でいたときから覚悟はしていた。きっとあの話をするために他のみんなを先に帰したんだろうって。
 影踏みを止めると、一歩、二歩と阿部君はどんどんと遠ざかっていく。このままのペースで歩き続けたら、阿部君はそのままドンドンと私を置いて進んでいっ てしまうだろうか。そうしたらあの話はなかったことになるだろうか。先延ばしにすることがなんの解決にもならないことはわかっていた。
 それでも。
「篠岡」
 願いは虚しく、阿部君がこちらを振り向いた。幸か不幸か、阿部君の表情は逆光でよく見えない。
「話があるんだ」
 私が返事をするよりも早く、阿部君の声が私の元へ届く。本当はこんな不自然な関係、もっと早く終わらせたかったのかもしれない。

 ***

「阿部君とケンカでもしてんの?」
「え、なんで?」
「なんかあんまし喋ってなくない?」
「んー、そうかなあ?」
「そうだよー。この間は二人で楽しそーに仲よーく帰ってたくせにぃ」
 一体何が面白いのか、ニヤニヤと笑いながら肩に腕を回してくる困った友人に、私は何度となく繰り返してきた言葉をまた口にした。
「だから違うってば。私はマネジ、向こうは野球部員。それだけです」
 部員とマネジという関係からか、よく邪推されてしまうのだけれど、私と阿部君は恋人ではない。私の一方的な片想いだ。それを知ってか知らずか、この友人 は私と阿部君が一緒に帰っているのを見た翌日から、ことあるごとにこうやってネタにしてくる。もちろん下校姿を見られたというのが一番の原因ではあるのだ けれど、からかいの対象が同じ野球部員である花井君や水谷君でないあたり、自分でも気付かないうちに阿部君が好きだという空気を出していて、それがバレて しまっているのではないかと、正直気が気ではない。
 バレないように気をつけなきゃ。
 普通に、普通に。
 そう心の中で唱えながら、私は必死に笑顔を作った。逆にこうして笑い話にされている方が、怪しまれることがなくていいのかもしれないとすら思った。それでも普通に振舞うだけの生活はただひたすらに不自然だった。
 阿部君とキスをした。
 一体なぜあんなことになったのか、私にもよくわからない。
 何かこれといった理由があったわけではなく、ただ一度だけ、そっと触れ合うだけのキスをしたのだ。思い出すだけで顔が火照る。
 好きな人との初めてのキスだ。
 嬉しくないわけがない。
 けれどキスの後も私たちの関係は変わることなく、 日常は日常のまま過ぎ去った。
 「篠岡」
 阿部君がいつもと同じように私を呼ぶ。
 私も何事もなかったかのように
「なに、阿部君」
 と返事をする。
 阿部君の声が耳に入るだけで、阿部君の姿が視界を横切るだけで心がざわめいた。
 私はどうすればよかったんだろう。阿部君が態度を変えないので、私も変えないように努力をした。何より部内の雰囲気を壊すようなことなんてしたくなかった。普段通り。繰り返される今までと何も変わらない平穏な日々。
 じゃああのキスはなんだったの。
 もしかしてこのままなかったことにされてしまうのかな。そう思いながらここ数日を過ごした。前よりもずっと阿部君の事を意識しながら。
片想いが楽しいなんて嘘だ。
こんなに振り回されて、辛いばかりじゃない。

***

 広がった距離はそのままに、私は顔を伏せた。
「話って、何」
 私がこうしている間、阿部君がどこを見ているのかはわからない。ただ、私を見ていないといいな、と思った。
「この間のこと」
 ドクン、と心臓が高鳴る。
 想像していた通りの言葉に私は震えた。一気に血の気が引いていく感覚。こんなにも緊張したことはない。阿部君の口から直接紡がれる言葉に耐えられるのか分からず、手のひらに爪が食い込むのも構わず、グッと両手を握り締めた。
「悪かった」
 目を逸らしていたのに、夕陽が作る影が阿部君が頭を下げていることを教えてくれる。
「花井が心配してた。最近お前がぎこちないって」
 緊張で、咽がカラカラに渇いていく。
「原因、オレしか思い浮かばなかった」
「阿部君は花井君に言われたから謝るの?」
 絞り出した声は思ってた以上に鋭いものになった。阿部君の答えが聞きたくて、でも聞きたくなくて。
 あのキスはなんだったの?
 ずっとずっとそう尋ねたかった。変わらない阿部君の態度。それが答えなんだと思った。きっとなかった事にしたいんだって。私一人だけが意識していた。
「お前、オレのこと嫌いだろ?」
「え?」
 顔を上げると、阿部君が少しずつこちらへと歩み寄ってくる。嫌い? 私が? 阿部君を? そんなことあるはずがない。なんでそんな勘違いをしているの。
「まあ、あんなことしたから嫌われんのは仕方ないんだけど、出来れば普通にして欲しいっていうか……。オレがあいつらに篠岡に何したんだって責められんのは別にいーんだけど、お前だって色々聞かれんの困るだろ」
 気付けば目の前に阿部君が居て、私はすっぽりと阿部君の影に入ってしまう。
「阿部君、本当に大きくなったよね」
「は?」
 予期していなかったであろう私の言葉に、阿部君は一瞬眉をひそめた。
「最初の頃と目線が違うもん」
「いまそんな話してねーだろ」
「嫌いじゃないよ」
 言わない。そう決めていたけれど、嫌いだと勘違いされたままなのは嫌だ。
「阿部君のこと嫌いじゃない」
「……」
「好きだよ」
 口にするのはこんなにも簡単だ。けれど、それがきちんと阿部君に伝わっているのかというのは別問題。
「阿部君こそ、私のこと嫌いなんじゃないの?」
「んなことねーよ」
「嫌いじゃないにしても、なんとも思ってないでしょ」
「なんでそうなんの?」
「阿部君は、どうして私が阿部君を嫌いだって思ったの?」
 それを耳にするなり、阿部君は困ったような顔つきになった。阿部君がこんな顔をするなんて珍しい。いつも困るよりも先に、怒ってしまう人だから。
「目、逸らしただろ」
「……いつ?」
「キスした次の日。その次も、その次も」
「それは……」
「嫌われたとしか思えねえじゃねーか。あんな態度取られたんじゃ部の用事以外では話しかけらんねーし。こっちはどう話しかけようかずっと悩んでたっつーのに!」
「そんなの恥ずかしかったからに決まってるじゃん! 私だって阿部君が普通にしてるからどういう風にしたらいいのかわからなかったもん!」
 怒鳴りながらも、私は一生懸命冷静になろうとした。私が悪いの? 私が先に阿部君を拒んだの?
「ねえ、なんでキスしたの」
 聞きたくて聞けなかった言葉を私はようやく口にした。冗談でやったのだったら、そのときすぐに笑い飛ばしてくれたらよかったのに。
「可愛いなって思ったから」
 まっすぐに私の目を見ながら、阿部君は呟いた。同時に心臓が信じられない早さで胸を打つ。
「可愛いなって思った後すぐに、あ、オレ篠岡のこと好きだって思ったんだ」
 口よりも先に体が動いた、と阿部君は続けた。信じられないほどあっさりと私のことを好きだと言った阿部君に、私は言葉をなくした。
「やった後に、あー、やべえって思ったけど、お前すぐ帰っちゃったし、言い訳させてくんねーし、花井にも突っ込まれるし、散々だ」
 そこまで言った後阿部君は私から視線を外し、大きくため息をついた。
「今回のことは全部オレが悪い。だから一発殴れ」
 覚悟を決めたと言わんばかりに、姿勢を正しながら阿部君は自分の頬を指差した。あまりにも堂々としたその態度に思わず呆気に取られる。
「……なんで殴んなきゃいけないの?」
「一回くらい殴った方がすっきりすんだろ?」
「しないよ」
「オレがすっきりしねえんだよ。あ、グーじゃなくてパーで頼むな」
 あと叩くのはここらへん、と阿部君は私に細かい指定を出した。
「本当にいいの?」
「あ、その前に一つ聞きたいことがあんだけど、聞いていい?」
「何?」
「さっき篠岡が言った好きっていうのは、友達として? それとも男として?」
 まさかこんなことになるとは思わずに、勢いのまま言ってしまったことをすぐに後悔した。
「私、三年間言うつもりなかったんだよ」
「オレらが両想いだとしても?」
「野球部のみんなも同じくらい大事なの」
「オレは早くお前と二回目のキスがしてーんだけど」
 大きく腕を振り上げて、指定された場所を思いっきり引っ叩いた。
「バカッ! 私本当にずっと悩んでたんだから」
 頬を引っ叩いた私の右手を阿部君の左手が優しく包む。
「おう、バカだよ」
 叩いたばかりの左頬が赤い。
「バカだから、はっきり言ってくんないとわかんねえ」
 ゆっくり、そして優しく私たちは口付けた。
「好き」
 二度目のキスは阿部君の味がした。

 

 

恋味

 

(08.09.-)あべちよアンソロジー「空色デイズ」寄稿

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